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第3回情報広告研究会 開催レポート

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【講師プロフィール】
林光
知識創造工房 ナレッジ・ファクトリー代表/社会評論家
1947年生まれ。1972年慶應義塾大学卒業。同年(株)博報堂入社。81年(株)博報堂生活総合研究所発足に伴い同研究所に出向。90年主席研究員、2003年4月より所長代理、10月に開設した未来生活研究室の室長も兼ねる。04年4月より同研究所所長。07年博報堂を退社後、同年9月より知識創造工房ナレッジ・ファクトリー代表、社会評論家、生活評論家として活動。主な研究領域は、消費社会論、生活者動向予測、生活者価値観分析、団塊世代分析、自動車の文化と生活等。埼玉大学教養学部、明海大学経済学部、東京大学社会情報研究所、慶応大学文学部などで非常勤講師を歴任。主な著書に『職人技を見て歩く』(光文社新書、2002年)、共著に『21世紀の生活者像と食品事業』(サイエンスフォーラム、2001年)など。

 
-INDEX-
テーマ:「戦後広告進化論 ―日本の広告は、どんな道筋で今日に至ったのか―」
■広告・宣伝・広報の違い
■媒体別の広告費で一番割合を占めているものは?
■日本初のコピーライティングは平賀源内によるウナギ販促コピー
■新聞の一面の記事下はなぜ出版広告なのか
■テレビの民間放送開始によって広告業界は変わり始める
■アメリカのいい暮らしが、日本人の憧れの対象
■「いい暮らしをしよう」から「人間らしくいよう」という広告へ
■現代も、まだまだテレビが圧倒的な存在感を誇っている
■第5のメディア、インターネットの誕生
■そして、未来の広告へ

 
テーマ:「戦後広告進化論 ―日本の広告は、どんな道筋で今日に至ったのか―」
■広告・宣伝・広報の違い

まずは、広告・宣伝・広報の違いについて、考えてみましょう。それぞれ英語にするとアドバタイジング、プロパガンダ、パブリックリレーションですね。これらは、ごちゃごちゃに使われていることがよくあります。企業の中には…例えばトヨタにしても、サントリーにしても、広告を担当するセクションがあるんですが、多くの場合が宣伝部、あるいは広報室と名乗っています。「広告」っていうのは名乗られていないんですね。一方、広告を作る側は、広告代理店とか広告会社というわけです。宣伝会社というのは聞いたことがありません。それぞれどういうことかというと、広告・宣伝は広義の意味では、人々に広く伝えることを指します。団体や企業が自分たちの利益になるようなことを伝えることを「広告」と言い、利益には繋がらないが伝えておいたほうがいいことを「広報」と言います。広報・広告局、という言葉を使っている企業もあるようですが。企業とは何らかのカタチで社会と接点を持っているわけですね。広告というのは、商品サービスを最初に人々に知ってもらい、理解してもらい、そしてできればちょっと興味を持ってもらう。そして行動に移して買ってもらう。そしてその後で好きになってもらって、言葉で言えばブランドロイヤリティー、つまりファンになってもらうという流れが一般的なものです。例えばソニーやホンダにはそれぞれソニーファン、ホンダファンがいるのですが、そういう人たちは何を出しても興味を持ってくれるし、買ってくれる。そういう顧客を持っていれば企業はある意味楽なんですね。一般的に、広告というものは顧客やユーザー、お客さんから見たら眉唾ものが多いんです。信用してもらえないものなんですね。女性週刊誌の後ろのページにはいまだに、怪しげなラッキーストーンなどの広告が載っています。「こんなの持っているだけで恋人ができるのか?」と思うようなものが出ているわけですね。

 
 
■媒体別の広告費で一番割合を占めているものは?

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この媒体別広告費のグラフを見てください。経済産業省のデータです。こうやって見ると、日本の広告の半分以上は、緑色の部分、つまりプロモーションメディア広告なんです。これは何かというと、要するに、マス広告以外を指しています。例えば、看板、中吊り、駅中…広告業界の言葉で言うと、SP、セールスプロモーションの品目になるものですね。日本の企業って99.7%が中小企業なんです。中小企業とはいえ、何らかの商品やサービスを人に売る上で、広告的なアクションをしているわけです。その行為を全部合わせると、これくらいインパクトのある比率になります。

 
 
■日本初のコピーライティングは平賀源内によるウナギ販促コピー

それでは次に、広告ってそもそもどういうところからはじまったの?というところから話をしましょう。日本で初めて広告的な動きがあったのは、江戸時代にさかのぼります。あるウナギ屋が、夏にウナギが売れないことを嘆いていました。ウナギの旬は脂が乗ってくる時期、つまり冬。夏にはウナギが売れないんです。その上、暑い日にわざわざウナギを食べたいとも思わない。そのため、夏になると売り上げが猛烈に低調になると。そこでウナギ屋の代表が、「何とかならんでしょうか?」とかの有名な発明家、平賀源内に相談したんです。そして彼は、「ウナギという滋養強壮に溢れた食材を食べて、夏を乗り切ろう!」という歌を提供しました。これが日本で初めてのコピーライティングだと言うのは有名な話。そして夏に土用の丑の日として、ウナギを食べる文化が出来上がったわけです。この他にも、節分のときに食べる恵方巻きも、バレンタインのチョコレート販売戦略も、実は会社が仕掛けたプロモーションの一環。日本人ってこういうのが好きなんですね。あと最近で言えばハロウィンの仮装でしょうか。ハロウィンはこの5年間で急激に流行ってきましたよね。こういうのにインターネットの世界がものすごく深く関わっているんです。マスコミュニケーションだけの時代では、こういう動き方は難しかっただろうと思います。

 
 
■新聞の一面の記事下はなぜ出版広告なのか

明治時代になると、新聞が誕生します。いわゆる自由民権運動の隆盛に伴って、東京新聞の前身である都新聞などの新聞社が誕生しますが、この新聞社が日本の良識・文化を担う文化産業として位置づけられてきました。新聞は今でもそうですが、横幅38.5cm、全15段という構成になっているんですね。ページの下の部分、3段分の記事下広告というのがあるんですが、そのうち6分割したものが雑誌の広告、8分割したものが単行本の広告として掲載されています。基本的に広告に載るのは、大きくない出版社です。その出版社に対して、普通の広告料金よりはるかに安い価格で広告枠を提供しているんです。新聞が、文化の担い手である出版産業や出版文化を支援している姿勢の表れです。発行部数が極端に少ない出版社であっても、新聞に載ると他から引き合いがあるわけです。日経新聞では、一面広告だと3000万円。その面積比から考えると、6分割された広告は100万程度。ですが、大きくない出版社に対しては、30万~50万円で提供しているんです。このスタンスは、明治時代から変わっていないんです。こういうものを広告業界では、「出版広告」と言います。出版以外の広告、自動車から食品までを、「雑品」と呼んでいます。要するに、その他の広告、という意味。それくらい「出版広告」というのは重要な広告だったんです。これが、印刷媒体が広告の中心だった戦前時代の話ですね。

 
 
■テレビの民間放送開始によって広告業界は変わり始める

そして、戦後です。昭和28年になると、テレビの民間放送が始まります。日本のテレビで初めて流れたコマーシャルは時報でした。当時は、CMではなくCFといってコマーシャルフィルムと呼んでいました。デジタルではなく、映画と同じようにフィルムのようなカタチで放送するんです。そのとき、間違って日本テレビがフィルムを裏側にかけてしまって、裏写しの時計が放映されるという大事件が起きました。民間放送が始まるようになり、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、という4媒体が揃ったわけです。

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1947年、日本の総広告費は、14億6000万円。新聞が11億円。雑誌が1億6000万円。1954年になると総広告費は550億円となり、新聞は332億円、雑誌は30億円、ラジオは74億円、テレビは4億円と急激な成長を見せます。当時、テレビは電気紙芝居と呼ばれ、良識ある映画俳優はテレビに出ないと言われていた時代。映画会社というのは俳優と専属契約をしており、他社には出演させないという契約があったんですね。例えば、吉永さゆりは日活の映画にしか出ない、というように。当然そういう人たちはテレビには出てくれませんでした。テレビ女優の第一号は黒柳徹子さん。一番初めに出演したのはNHKでした。当時の博報堂はテレビ広告に疑問を持っていたようで、テレビ広告を無視していました。それに対して電通はこれからはテレビの時代ということで、積極的にテレビに出資していました。そしてテレビ広告において、今日の圧倒的な電通の支配体制が出来上がったわけです。1967年は、日本の人口が1億人を突破した年。1945年に7200万人からスタートした人口が、22年かかって1億人を超すわけです。今の団塊の世代と呼ばれる人たちが出生し、急激に日本の人口が増えていく中、受像機数も増えていったわけですね。 さらにテレビが普及したのは、天皇陛下と美智子さんのご成婚がきっかけ。日本のテレビがカラーテレビになったのは、1964年のことでした。東京オリンピックが開催された年ですね。

 
 
■アメリカのいい暮らしが、日本人の憧れの対象

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その3年後の1967年の広告費は、新聞1611億円に対して、テレビが1509億円。テレビが新聞に肉迫してきました。当時の日本は、高度経済成長期まっただ中にありました。高度経済成長を成し遂げたのは、企業が成長したのが第一ですが、その前に個人消費の後押しがあったからなんです。個人消費を後押ししたのは、テレビ番組。それもメイドインUSAの番組です。まだ日本ではドラマも作られていない時代に、アメリカ製のホームドラマ、「ウチのママは世界一」、「パパは何でも知っている」といったものが放送されたんです。他にも「奥様は魔女」という番組があって、これは自分の奥さんが魔女で、鼻をぴくぴくさせると魔法がかけられるというドラマなんですけど、主人公であるダーリンは広告会社のコピーライターなんですね。彼らは立派なお家に住んでいて、ウィークエンドにはワゴン車に乗って買い物をして、大量の食品を買ってきて、家の大型冷凍冷蔵庫にどさっと入れる。そして、パーティーを開くんです。そのパーティーにはオーブンで焼いたチキンやケーキが並びます。こういう生活は、今の日本では普通のこと。ですが、当時の日本にはこんな生活はありませんでした。憧れの生活だったんです。これ全部、アメリカの陰謀なんですね。アメリカの産業をカタチづくったのは、ゼネラル・エレクトリック社。この会社を作ったのは、あのエジソンです。彼は発明王でもあったんですが、ビジネスモデルの発明王でもあったんですね。彼が発明した有名なものの一つに白熱電球がありますが、白熱灯が出来て間もなく蛍光灯が発明されたんです。だけど、白熱級の開発経費を回収しないうちは、蛍光灯を出してはいけないと、ずっと仕舞われていたんです。白熱灯では儲からないよね、となってから、蛍光灯を売り出した。これがマーケティングなんですね。マーケティングの概念が日本に入ってきたのは、1950年の終わり頃。アメリカで始まったビジネスモデル制作のための一つの戦略ではありますが、マーケットをデザインして、マーケットデザインに応じてプロモーションを考えて、その一つの戦略として広告を打つ、そういう形が日本で出来上がったのは60年代のことでした。それを実行した結果として高度経済成長があるんですね。その成長の担い手が、アメリカのホームドラマを見て、「うちにも冷蔵庫ほしいな」、「レンジほしいな」という願望を生み、消費へとつながったんです。当時、三種の神器と言われたのは、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機。そのうち電気掃除機に代わって、テレビが入ってきます。最初はテレビが入ってなかったんです。アメリカの占領軍が日本人の生活を豊かにして、日本をアメリカ製の製品のマーケットにしようと考えたんですね。日本人の暮らしでは実現していない、でもアメリカでは普通になっているというものをホームドラマに描いた。それが高視聴率を得て、日本人が「いつかああいう生活をしてみたいものだ」と商品を買ったわけです。60年代終わりになると3Cというのが出てきます。カー、クーラー、カラーテレビ。つまり生活の豊かさステージのステップアップですね。冷蔵庫、洗濯機、テレビは大体どの家にも揃ったから、その次に買うものを、ということで3Cが生まれました。日本人がみんな同じようなものを買って、生活の質を上げたのは70年代の半ばまでが最後です。

 
 
■「いい暮らしをしよう」から「人間らしくいよう」という広告へ

60年代の終わりに、広告の世界では、のーんびりやろうーよー♪おーれーたーちは~♪というブリヂストンのコマーシャルが出てきました。「猛烈に働くのってくたびれてきたよね」っていう広告が69年くらいから出てきたんです。71年には「公害」という言葉が出てきます。スモッグという有害物質によってぜんそくが起きたり。市民運動が起きたのも70年代に入ってからでした。72年には第四次中東戦争が起こります。これによって、石油ショックが日本に起こります。こういった時代背景から、広告表現が少しずつ変化を見せてきました。それまでの広告というのは、「今よりもちょっといい暮らしを人々に与えて、商品サービスを売ろう」という、その一つの舞台がアメリカ製のホームドラマだった時代に対して、「いやいや、そうじゃないんじゃないの、人間らしくいようよ」というメッセージに変化してきたのが70年代の広告なんです。

 
 
■現代も、まだまだテレビが圧倒的な存在感を誇っている

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2014年現在の総広告費は6兆円です。そのうちの2兆円は電通、1兆円は博報堂、という割合ですね。戦後、1947年の総広告費が14億円ですから、何倍になったのか分からないくらい成長したわけです。一番成長しているのは、プロモーションメディアの分野で2兆円。いわゆるPR、SP、印刷のことですね。とはいえテレビが約2兆円弱ですから、「メディア」というくくりで売り上げが高いのはテレビがまだ1番です。

 
 
■第5のメディア、インターネットの誕生

もともとインターネット広告がはじまった当初は、インターネットのビジネスモデルはかなり異質でした。広告のビジネスモデルって、伝統的なものは企業と広告会社とメディアで3社契約というのを結ぶんです。でも、マスメディアのビジネスモデルはインターネットの世界では通じません。広告会社の中では、電通も博報堂もインターネット広告はどうやってお金を取るものなの?というのが分からなくて、結構迷っていました。そのうち、インターネット専業の広告会社が出来てきました。インターネット広告は、まだマス広告のような定番のビジネスモデルは完成していなくて、収益を獲得する方法はまだまだ探ることができると思います。そもそもインターネットが誕生した90年代初頭、世界で何があったのかというと、1989年にベルリンの壁崩壊という大事件がありました。東西冷戦構造の象徴であった、西ベルリンと東ベルリンを隔てていた壁が、東ベルリンの自由化によって壊されたんです。その前に、当時ソビエト連邦共和国がペレストロイカという運動によって自由化され、ロシアは共和国に分割されました。東側と呼ばれた共産圏諸国が、一斉に自由化し、中にはEUに加盟したり、あるいは東側の象徴であるワルシャワ条約機構軍という軍事組織があるんですが、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの西側諸国が作っていたNATO対ワルシャワ条約機構軍という構造が世界を覆っていたんです。冷戦構造上にあったのは、原始的なインターネット。軍事コミュニケーションネットワークは、アメリカで言えば北米米空軍の総司令基地から、各々の基地を結ぶネットワークが作られた。これは、昔で言えばパソコン通信みたいなもので、中心にサーバーがあって、各地域を結んでいるというような構造です。敵が中心を狙って、中心が崩壊したらネットワークが崩壊するわけです。それに危機感を感じたアメリカがネットワークの分散化を図ります。さまざまな地域にイントラネットワークをつないで、インターネットワークを作る。このインターネットの原型は、80年代の終わりに軍事技術として出来上がっていたんですが、90年代移行に東西冷戦構造が終わり、軍事費を何とか民間転用して儲ける形を作らなければいけないということではじまったのが、インターネットなんです。最初は北米にある大学研究所のイントラデーターベースをよそから参照するために作られたシステムでした。ネットワーク自体は言語が違っていたり、プロトコルが違っていたので、それを統一すべくWWWという形にして、言語としてのHTMLを共通化し、世界で共通して使えるようにしました。インターネットは、NASAや北米戦略指令軍が関わっていたんですね。ちなみに、アメリカのドメインは「.com」ですよね。日本は「.jp」。アメリカだけは例外なんです。インターネットって実は、グローバルスタンダードなのではなく、アメリカスタンダードなんですね。フランス、カナダ、アフリカ諸国、フランスのインターネットにおける主権をなんとか取り返そうという同盟が作られたり、日本や韓国、中国で漢字のインターネットにおける共通プラットフォームを作ろうという動きがあったんですが、なかなかこれに関しては上手くいっておらず、アメリカの独擅場という感じです。

 
 
■そして、未来の広告へ

マスメディア広告からインターネットへ。というのは急激にカーブを曲がっているところです。インターネットはまだまだビジネスチャンスが山ほどある。Twitter、Facebook、mixiなど、いろんなものが出ているけど、3年後にはLINEは廃れているんじゃないかと思っています。これから先、果たしてどんなところに落ち着くのか、それとも落ち着かないのか。どのようにインターネットとどうやって関わっているのか。まだまだインターネットは終わっていないし完成していないと考えています。